10月13日、都内で坂本龍馬ゆかりの地巡りに参加しました。
東銀座から都営地下鉄、京浜急行電鉄と乗り継いで、品川区東大井にある鮫洲で下車しました。都内で最も古いという警視庁の鮫洲運転免許試験場が近くにあります。運転免許試験場とは反対側、第一京浜を渡ると大井公園があります。
大井公園に接して土佐藩15代藩主山内豊信(容堂)の墓があります。1枚目の写真で、左側奥に進み、右手に登るのですが、現在は「余震の恐れがある」と、品川区が立ち入り禁止としています。やむを得ず、右手の石段を登り、大井公園の際から見学です。
山内容堂の墓は2本の石灯籠と2つの石碑の間、丸い土盛りの部分です。容堂の遺言によって建てられた墓は土佐藩下屋敷があった方向(東側)を向いています。
豊信(とよしげ)は藩主時代の名。安政の大獄により隠居して容堂と名乗る。幕末の四賢侯の一人。NHKの「龍馬伝」では近藤正臣が演じました。
ドラマでは容堂が竜馬を謁見する場面があったそうですが、これは小説ならばこそで、実際にはあり得ない話。
鮫洲駅近くにあった案内板です。今回登場する場所が分かります。
旧東海道の品川宿辺りを歩きます。途中、幹が奇妙に曲がった松の木を発見。
旧東海道は立会川を越えますが、立会川にかかった橋を浜川橋(別名涙橋)と言います。この先には鈴ヶ森刑場があり、家族や縁者が橋のたもとで罪人を涙で見送ったと言われています。
浜川橋の手前を左に折れると、その先に浜川砲台跡があります。ペリーの黒船来航の翌年、土佐藩は鮫洲抱屋敷の海側に砲台を作ります。龍馬も海岸警備隊に駆り出されたそうです。
立札の下に並べられているのは、掘り出された砲台の礎石だとのことです。
浜川砲台跡地で記念撮影です。背後の白い囲いは東京都下水道局のトンネル工事現場です。
沿岸警備に駆り出された龍馬は土佐藩下屋敷を宿舎として、ここまで通いました。
京浜急行電鉄立会川駅から旧東海道に至る商店街は龍馬が歩いた道に当たり、「ようこそ龍馬のまちへ」をキャッチフレーズにしています。
立会川駅の近くには、2010年に京浜ロータリークラブから寄贈された龍馬のブロンズ像が立っています。龍馬の顔は彼がここを歩いた当時の20代を想定したとのことで、ブーツではなく草履を履いていました。2004年に高知市から寄贈されたものはプラスチック製で、これは2代目に当たります。ここでも記念写真を撮って、16時に現地解散しました。
(おわり)
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この記事へのコメント
なおさん
浜川砲台跡もご覧になりましたか。いろいろ歴史の勉強ができて、たのしい散策だったようでいいですね。
行き当たりばったり
昔、京都で「龍馬の声」なるものを聞きました。姿恰好から声を合成したのでしょうが、科学?の進歩はすごいですね。実際に歩くと「なるほど」と「そうかなぁ」だったでしょうね。
寿々木
長さん
山内容堂の生涯は46年、大酒飲みが祟ったのでしょうね。
一方の坂本龍馬の生涯はわずか31年、その足跡の大きさに感心します。
長さん
実際に龍馬の足跡をたどると、若き龍馬のロマンスなども知ることができて、楽しい一日でした。
合成で龍馬の声が聞けましたか。それも面白いですね。
長さん
江戸時代は電車などなく、当然移動は全て徒歩。昔の人は健脚だったのですね。
kaze・・・
だばかりでした。山内容堂の一代記
です。身分制度の確立した時代で
藩主と郷士の接触は考えられません
ですね。この沿岸警備が龍馬が世界
に目を向けるきっかけになったの
でしょうか、小説ではそういうこと
になっていますけど本人に聞いてわ
けでは・・・・。
長さん
山口容堂の一代記を読まれましたか。藩主になる以前はわずか1500石の分家だったそうですね。
NHKの大河ドラマも時代考証をしっかりやっているようですが、時々おかしいことがありますね。
龍馬も黒船を実際に見たことでしょうから、帰郷後の学習に影響を与えたことは間違いないでしょう。
無門
それぞれの町で
それぞれ龍馬の顕彰ですね
今の時代
龍馬をふと思い出すのも
いいのかもしれませんね
nobara
山口容堂はん、好きになれませんでした。
ドラマに影響されてしまうミーハーどすぅ~(笑)
近藤正臣さんも役者冥利に尽きる(嫌われて?)
今回のウォーキングは殿方向きでしたね。
長さん
最後の写真の銅像は昨年プラスチックからブロンズに建て替えられたのですが、多分にNHKの大河ドラマの影響でしょうね。そういう私たちもそうですが…。
長さん
東銀座から羽田ですと、相互乗り入れの北総公団鉄道の車両に乗るか、品川または京急蒲田乗り換えですね。これ、面倒くさいですですね。現在、京急蒲田駅は2階建てになっていますからご注意を。
ははは、演じる役者によって好き嫌いが分かれますか。
あいべん
元気なんですね。
長さんですよね首からカメラ提げれるの・・。
竜馬のブロンズ像何度記念撮影に付き合わされた
事でしょう。
東京ビルばかりのイメージありましたがこの辺りは
普通の町並みなんですね。
shuuter
山内容堂の墓が東京にあるのですね。
まだ身分制度が現存する時代に脱藩者が容堂と面会するなど
あり得ませんね。
ケン坊
長宗我部家が治めていた高知へ、後から山内家が入り
上士・下士という制度ができたんですよね?
その関係で高知にはお墓を作ることができなかったんでしょうか? いろいろ詮索しちゃいますね。
hanasaku
山内容堂のお墓が東京にあったのですね。それにも驚きましたが。あの松の枝はどうしてあんな格好になってしまったのか不思議です。長さんのカメラ凄い!!
長さん
10名のうち、先輩6名、同期1名、後輩3名と私という構成でした。私は、仰る通り、端に立っている人物です。童顔なので、若く見えるでしょう。
東京もいささか広うござんすから、ビルばかりではありません。写真のあたりは空襲にも合わなかったので、昭和初期と思われるような家も残っていました。
長さん
一人でも歴史に詳しい人がいると、見学も内容が深まります。
容堂は隠居後も東京に住み続け、土佐に帰る意思はなかったようです。
龍馬と容堂を会せるなんて視聴率稼ぎなのでしょうか。
長さん
山内一豊は外様として高知藩を与えられたのですが、長宗我部家の武士たちの反乱を押さえようと、身分制度を強化したようです。
隠居後の容堂は酒と女と作詩に明け暮れ、土佐のことなどどうでも良かったのでしょう。
長さん
晩年の、と言っても46歳までですが、鮫洲の屋敷が一番くつろげたのではないでしょうか。そこを望める高台に墓を希望したそうです。
松の枝、曲がり具合が不思議ですね。
カメラはeos40Dで、ちょっと長い、安物のズームレンズを付けていきました。
ぶたねこ
解りませんが、歴史にお詳しいですね、
勉強させて戴きました。
記念写真、見ると皆さんお若いですね
同窓生ですか、
長さん観光ガイド楽しかったですよ。
有りがとう御座いました。
長さん
私が歴史に詳しいわけではなく、案内役のTさんの説明とネットの情報を付け加えたのです。
同行者は労組のOBで全員60歳以上の爺です。年に2回くらい集まってぶらついているんです。