ガイドの大島さんの説明によると、日航側は3000人が集まれる広さを希望したそうで、山間の村で用地を探すのは大変だったとのことです。
合掌形の慰霊塔は高さ11m、総重量150トン、白御影石を210個積み上げています。土地代を含め約4億円(上野村、日航、寄付金が主な財源)かかったそうです。設計は半田富久さん(石彫家)。慰霊塔の約8Km先に御巣鷹の尾根があります。
線香を手向け、M.Kさんが一行を代表して献花。続いて、全員で献灯しました。
慰霊塔の背後には犠牲になられた方々のお名前を刻んだ名碑があります。また、慰霊塔の真後ろには納骨堂が設けられており、最終的に身元確認が出来なかった方々のご遺骨が収納されています。
セレモニーの後、全員で記念写真を撮りました(M.Kさん提供)。私は、前列右から2人目。
慰霊の園の手前に、展示棟が建てられていて、事故当時の写真や関連資料、書籍が展示されています。写真の中に、納骨堂内部の写真がありました。内部は八角形で十畳ほどの広さ。4000枚の金箔が貼られているそうです。
展示物の説明をしていただいたのは民宿不二野家のご主人・黒沢昭司さんです。現在、旅館業の傍ら、上野村観光協会会長、上野村旅館民宿飲食店組合組合長の要職も務める黒澤さんは、事故直後から上野村消防団の一員として尾根に入り、捜索活動に参加されたそうです。大変ありがとうございました。
フジテレビのスクープとなった川上慶子さん救出の場面(写真左下)。右下は、展示書籍の中から発見したM.Nさんと英国人男性K.Mさんの生前写真です。私はこのお二人のご遺族のお世話を担当しました。
写真は夕食に出された不二野家ご自慢の熊と鹿の肉です(バター焼きで頂きましたが、大変美味しかった)。ヤマメの刺し身や、猪豚のコロッケも珍しく、かつ美味しかった。
< 続く >
追記
2005年8月に拙ブログで「御巣鷹山事故から20年」と題した記事(雑感や体験記など)を8回投稿しました。目を通していただけると大変うれしいです。
その1 その2 その3 その4
その5 その6 その7 その8
この記事へのコメント
peko^^*
昨日の事のように辛い出来事だと思います。。
そのご遺族のことを思い涙する長さんのお気持ち。。
お察し致します。
毎年こうして慰霊の登山をされる長さんのお気持ちが
ご遺族の方達にもきっと届いていると信じております。
安全で安心して乗れるJALとして、再建して頂きたいと
切に願います。
まねき猫
当初、JAL職員に対して暴言、暴力がひどかったと本等で知りました。
きっとお世話係だった長さんも、そのようなことを経験されたのだと思われます。
でも、長さんの思いが遺族の方に通じたのですね。
だからご遺族も長さんに対して温かい言葉をかけられたのですね。
読んでいて、涙が出ました。
花咲か爺
当事者でなければ日々に忘れて、時折TVのニュースで見る折に思い出すぐらいとなってしまいますね。大津市の石山寺の座主の奥様はこの時に妹さんを亡くされて、供養に実家からのヒガンザクラを犠牲者を悼むため520本、約20年かけて育てられ、早春に境内を美しく染めるようになったそうです。
今年も花の時期に行きそびれましたが、来年こそは参拝しようかと思っています。犠牲者皆様のご冥福をお祈り致します
と共に、長さん達のご苦労も頭の下がる思いです。お疲れ様でした。
長さん
JALに勤めていたものとして、また、ご遺族に直接触れ合ったものとして、少しでも思いが通じるようにと慰霊登山を続けております。
長さん
一緒に涙していただき、恐縮です。私が担当したご遺族はとても紳士でしたので、暴力をふるわれることはなかったのですが、大阪でのお通夜の時は冷たい目にさらされました。その時に私をかばってくれたお父様のお言葉でした。
長さん
4年前の記事をお読みいただけましたか。重ねて御礼申し上げます。羽田-大阪便でしたので、関西の方も沢山お亡くなりになられましたね。阪神球団の社長も亡くなられ、その年は阪神が奮闘して優勝したことも思い出します。
OSAMI
長さん
慰霊塔はよくテレビや新聞に出ますが、背後の納骨堂は知られていないかもしれませんね。当時の鑑定方法は血液型が中心でしたので、身体的特徴のない相当数の部分遺体は身元鑑定が不能でした。身元不明の場合は、無縁墓に葬られますが、あまりにも大量なため上野村のご配慮で納骨堂が出来たとのことです。
なおさん
熊や鹿の肉も民宿で出ましたか。あたたかいもてなしのようでいいですね。
ケン坊
第三者的な立場でニュースを見聞きしているものにとっては、なかなか背景まで記憶に留めるには難しく、本件もブログにてやっと理解ができた気がします。
ご苦労様でした。
長さん
JALの幹部も年に一度訪れる場所ですが、奇しくもこの10月1日にJALの整備部門を全部下請けにしてしまった訳で、空の安全についてどれだけ真剣に考えているか不明です。
熊や鹿の肉って、意外に旨いんです。
長さん
鑑定技術が進んでいない当時、確定には4カ月を要しました。それでも、お二人分はついに不明のままでした。そして、判定不能な大量な部分遺体が残されたのでした。
真紀
長さん
御巣鷹山事故から今年で満35年が経過しましたが、あの年のことは鮮明に思い出すことが出来ます。事故後、10年間は毎年慰霊登山に向かい、それ以降は数年おきになりました。今年は35年と言うことで、登りたかったのですが、台風の爪痕やコロナの関係で登ることが出来ませんでした。秋か、来年にでも登りたいと思っています。
事故当時、ご遺族には日航の立場でお世話をすることになったのですが、それは建前。ご遺族の立場に立ってお世話をし、時にはご遺族に代わって日航にもの申す必要がありました。お世話係はおしなべて同じ気持ちではなかったかと思います。
真紀
ニュース等で、台風、コロナの影響は、耳にしました。
ご遺族の方、山を守っておられる方も、高齢となり、色々な問題がある様ですね…
長さん(と、お呼びしてよいのか…)も、慰霊登山を続けて来られたとの事。今回は、本当に、残念でしたね…しかし、長さんも、同様に、年齢を重ねておられます。
ご自身の事も、大事にされて下さいね。
遠い鹿児島の地から、この度、繋がれた事、とても嬉しかったです。
つい先程まで、全く知らなかった人と、繋がれる。これも、何かの縁ですね…
また、慰霊の登山をされた際は、教えて下さい。時々、覗きに行きます。
私事ですが、昨年末に、父を病気で亡くしました。68歳でした。長さんの返信を読み何故か、父を感じた次第です。
本当に、ありがとうございました。
長さん
事故の時は42歳でしたから、現在は77歳です。3年前に膵腫瘍が発見され、このまま放って置くと膵臓ガンになると言われ、膵臓と脾臓を摘出し、必然的に糖尿病になりました。甘いものや麺類、揚げ物など、好きなものが食べられなくなりましたが、野菜中心の食事に切り替え、毎日1万歩を目標に歩くなどで、健康を維持しています。基礎疾患があるので、新型コロナに感染しないよう注意して生きています。上の孫が中3なので、彼が20歳になるまでは生きていたいと願っています。
父上は68歳で他界されましたか。それは残念ですね。私の次男は48歳でなくなりました。両親の時より悲しい出来事です。御巣鷹山事故は、500人以上の方が亡くなられたわけですから、その悲しみはどれほどかと、今更ながら涙が湧きます。
最近、当ブログは花中心になっていますが、時々お尋ねいただければと願っております。
勿論、次回の慰霊登山後には記事としてアップする予定です。
残暑厳しき折、ご健勝を祈ります。
追記 当該記事の追記に「その3」がリンクされていますが、私の同期で親友の大島君は定年後もボランティアで御巣鷹の尾根の整備や墓標の書き換えなどを行っています。今年も山に登った事が朝日新聞デジタルに載っていました。↓
https://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/000/406/52/N000/000/000/159740885034135654186.pdf
真紀
記事のページを添付頂き、ありがとうございました。遺族の方と元職員の方の、強い絆を感じました。お互いの立場を乗り越えて…
長さんも、大きな手術をされたのですね。
好きなものが、自由に食べれないというのは、辛いですよね…父も、そうでした。
そして、次男さんを、48歳で亡くされたとの事。正に、私と主人は、今年、歳男の48歳、私は、来年2月に48になります。
子供を持つ親として、子供が先に逝く事は、本当に辛く耐え難い事だと思います。
今、中3のお孫さんというのは、次男さんの子供さんでしょうか…?
長さん、息子さんの代わりに、長生きされて下さいね。
お孫さんのブログも覗いてみました。中2の時のものでしたが、立派に成長されているのですね。
さーちゃんも、可愛いですね。
成長が、楽しみですね。
私は、娘が2人います。今から、そろそろ空いてきた、プールへ出掛けてきたいと思っています。
では、また、お便りします。
ありがとうございました。
長さん
こちらは、今日37℃を超え、体感的に一番暑く感じましたが、夕立があってぐっと気温が下がりました。
記事に出てきた元社員の大島君は会社の山行会に所属していたので、当時からピッタリな仕事でした。実は私も山行会に所属していましたが、本格的な山ではなく丘男でした(笑)。
次男の急逝はショックだったです。未だに、夜、ふと思い出すことがあります。孫二人は次男の子供ですから、私が父親代わりになれれば良いなと思います。幸い二人ともしっかり成長しているので、今のところはあまり出番がありませんが・・・。